~私が背負った運命~

代表水野松三から皆様へ

「水野さん、どうするんだよ!
あんた会社のこの実態を、本当はわかっていたんじゃないのか!?」

かつて私が社長代行を務めた「東都住宅」。
倒産したその会社の債権者委員会の席で、私に向けて響き渡る怒号。

「受け止めるしかない…」

どんな困難があっても、自分に課されたこの運命を受け止めて行く。
思えば私は、そうやって今日まで歩いてきました。

ご挨拶が遅れました。
改めまして越谷市の皆さま、こんにちは。
東都ハイム代表取締役の水野松三です。

東都ハイムは2024年4月23日で設立39周年を迎える会社です。

この39年間数えきれないくらい沢山の出来事があり、時には私も自分自身の運命に翻弄されながらも、ここまで会社を存続することが出来ました。

私たち東都ハイムは住宅事業を通じて、越谷市にお住まいの「これからの人生まだまだ楽しみたい!」と願う皆さまのために、何があなたのベストな暮らし方なのかを一緒に考え、イキイキと笑顔で暮らし続けるための住まいづくりを応援する会社です。

少しだけ私自身の昔話をさせて頂きながら、私たち東都ハイムについてお話させて頂ければと思います。

 

 薬を売り歩いた幼少期

「いりません」

また断られた。
そう呟きながら、幼い私は北海道の街を歩いていました。

富山県生まれの私は、幼いころ家業の手伝いで薬の行商を行っていました。
富山から単身北海道に渡り、一軒一軒民家を訪ねて周り、薬の販売していたのです。

見知らぬ北の大地で何軒もの家を訪ねてみても、返ってくる答えは「いりません」。
幼い私にとってそれは辛い体験でした。
しかしそんな体験をしたからこそ、「給料は自分の力で稼ぐもの」という意識は誰よりも強く、だからこれまでがむしゃらに仕事を続けることが出来たのだと思います。

 

 「お客さまの夢を建てる」住宅という仕事

 

そんな私が住宅の仕事を始めたのは、冒頭でお伝えした「東都住宅」の社長に、声をかけて頂いたのがきっかけです。

私は当時、越谷市の宮本町にあった「コスモボール」というボーリング場の資金管理の仕事をしていました。東都住宅はそのときのお客さまです。
そんな縁から社長に、「是非、ウチで働かない?」と声をかけていただいたのです。

誰よりもがむしゃらに働き、気づけばあっという間に越谷営業所の店長に昇進。
住宅の仕事は初めてでしたが、「お客さまの夢を建てる」住宅という仕事に、楽しさや希望を感じていました。
思えば私の運命が大きく加速し始めたのは、これが始まりだったように感じます。

 

社長の他界と残されたお客さま

 

私が店長に就任してしばらくすると、会社に異変が起こりました。役員が次々に退職し始めたのです。
東都住宅は当時、越谷で大きな住宅会社でした。しかし、自社の資金管理については少し甘いところがあったのでしょう。
役員が次々に退職したのは、いよいよ会社の経営に黄色信号が灯ったからです。

東都住宅時代

そして私は社長に呼び出されました。
「水野、お前に常務になってほしいんだ」

私はお世話になった社長を尊敬していました。
だから自分の力が役立つのなら、かつての経理仕事の経験を活かして会社を立て直そう。
そう考えた私は自宅を担保にし常務に就任、経営に加わりました。

会社を立て直す。
そう決意したものの経営難に陥ったことによる悪循環は、尚も加速する一方でした。なんとか会社の経営を安定させようと、“資金繰りのための営業活動”を繰り返していくなかで、よりいっそう会社は弱ってしまったのです。

そして時を同じくして、社長が他界しました。
事故なのか自殺なのか。今となってはご本人にしかその理由はわかりません。
知人からの電話で社長の死を告げられた時、私は呆然としました。

そして同時に危機感を覚えました。
「このままでは、大変なことになる」

社長がいなくなり、このまま会社もなくなったらパニックが起こる。会社がなくなればお客さまが路頭に迷ってしまう。

「自分が犠牲になっても構わない、会社を必ず存続させなければいけない」
私は、負債まみれの東都住宅の社長代行に就任しました。

しかし東都住宅が抱えていた負債の額はあまりに大きく、銀行とのやり取りに奔走するも、数か月後にとうとう会社は倒産してしまいます。

「社長の東都住宅を残すことが出来なかった…」
そんな想いもありましたが、この時何よりも気がかりだったのは残されたお客さまのことでした。今まさに家づくりを始めたばかりのお客さまが、30組ほどいらっしゃったのです。

30軒全てを、無事に引き渡しまで終わらせる。
それが東都住宅の社長代行に就任した、私の責任であり運命でした。

 

握りしめた3万円

 

東都住宅がなくなり、私は地位も名誉も財産も、全て失いました。
罵声を浴びせられ、家に帰れば嫌がらせの電話が鳴り響く。何度か、自分の身を案ずるほどの怖い目にも遭いました。
ただ当時は自分のことよりも、まだ幼い息子たちに危害が加えられないかと、心配でたまりませんでした。

「でも立ち止まるわけにはいかない。やらなくてはいけない」
毎日毎日自分に言い聞かせながら、着工中の30軒の引き渡しに向けて走りまわりました。

しかし、ただ一つ。今も私の記憶にこびりついて離れない出来事があります。
それは当時まだ幼かった自分の子どもたちに、クリスマスプレゼントを買ってやることが出来なかったのです。

地位と名誉と財産。全てを失いどんなに生活が苦しくても、これまで親にお金を借りたことはただの一度もありませんでした。でもこの時だけは、息子たちにプレゼントの一つも買ってあげられない自分の不甲斐なさに、押し潰されそうになりました。

「…3万円貸してください」

給料は自分で稼ぐもの。
そう考えやってきたはずの私は、親に最初で最後のお願いをしました。
そして、そのたった3枚のお札を握りしめ、息子たちのためにプレゼントを買って帰ったのです。

自分が犠牲になっても構わない。
そう決意し仕事を続けてきましたが、息子たちのことを想えば想うほど、「すまない」という気持ちと、「なんとかしなくては」という気持ちが私の頭を巡り続けました。

そしてそれから5年の歳月が流れました。
仲間の助けを借りながら5年間走り回り、やっと最後のお客さまの家をお引き渡しする日がやってきたのです。
「本当にありがとうございました」
そう泣きながら喜ぶお客さまの姿に、私の目に熱いものがこみ上げました。

 

東都はまだ生きている

 

「会社名は東都ハイムにしようと思う」
私は、仲間にそう告げました。
30軒の引き渡しを終えた私は、新たに自分の会社を立ち上げようと決意したのです。

しかし、「あれだけのことがあったのだから、東都の名前は使わないほうがいいですよ」
と、周囲の人間は大反対。
それでも、私の決意は変わりませんでした。

東都住宅が倒産したことで、お客さまをはじめ様々な方に迷惑をかけたことは、今でも申し訳ないという気持ちでいっぱいです。でも東都住宅は経営に失敗しただけで、悪いことをしたわけではない。失敗は誰にでもある。

しかし、仕事がなければ私自身も生活をしていくことが出来ません。何より、これまで妻や息子たちには沢山の我慢をさせてきました。
家族のためにも、もっとがんばらなくてはいけないのです。

私は以前の東都住宅のお施主さまの家を訪ねて周り、ウォシュレット付トイレの交換リフォームを始めました。
商品代と施工代込みで、1件につき収入は7万円。とにかく一生懸命働いて、良い仕事をする。そして、お客さまに喜んで頂く。その積み重ねの先にしか、明るい未来はない。
思えば当時は、それ以外の余計なことを考えるヒマも余裕もなかったように感じます。

そして時を同じくして、私のこれからの家づくりの価値観を決める、ある出来事が起こったのです。

 

私は家で暮らしたい・・・帰りたいです

 

トイレの交換リフォームから始まった東都ハイムは、徐々にではありますがリフォーム以外に、土地探し、建て替え注文住宅のご依頼を受けるようになり、東都ハイムへのご依頼が増えていくことに、ありがたさと喜びを感じる日々でした。

そんなある日、とある介護施設の浴室リフォームのご依頼を受けたのです。

「お風呂が新しくなって、施設の皆さんは前より気持ちよく入浴が出来るはずだ。
きっと喜んでいらっしゃるに違いない」
疑いもなくそう考えていた私は、工事が終わった後に、ある入居者の方に声をかけました。

「お風呂が新しくなってどうですか?気持ちよく入浴が出来ていますか?」

すると、そのお方はこんな風に答えたのです。
「…ここのお風呂が新しくなることより、私は家で暮らしたい、帰りたいです」

自信をもって行ったリフォーム工事は、入居者の皆さんが本当に望んでいることではありませんでした。
「そんな気持ちを、考えたこともなかった」
自分に出来ることはなんだろう。私は考え続けました。

IMG_6617そんな時です、私が「バリアフリー住宅」の存在を知ったのは。
今では当たり前になりましたが、当時バリアフリーはまだ一般的に知られておらず、施工できる人もほとんどいないほどでした。

「これだ!人生の最後の日まで、いつまでもイキイキと暮らせるような住宅を作ろう!」
私はすぐに行動を始めました。日本でただ一軒、自宅をバリアフリー化した家が金沢にあるという情報を聞きつけ、すぐさま社員を連れて金沢に視察に向かったのです。

そして視察後に越谷に戻った私は、一棟のバリアフリー住宅の施工に携わることになりました。
当時大工達もバリアフリー住宅の施工方法を知らない時代でしたので、指導者を呼ぶ手配をし、一つ一つ確かめるように施工したのです。

 

私はこの時、自分がやるべき仕事はこれだと再確認しました。
まだ日本でほとんど知られていない「バリアフリー住宅」、それで商売が成り立つかはわからない。
でも自分がやらなければならないのは、「お客さまの夢を建てる」こと。
自分の人生にどんな困難があろうと、最後の瞬間まで暮らし慣れた家に住みたい。そう願っている方は、たくさんいらっしゃるはずだ。
まずはそれを実現するお手伝いをすることに全力を注ぐ、それで商売に繋がるかどうか後で考えればいい。たとえ繋がらなくても良い。自分がやるべきことはこれなんだ。

東都ハイムSKM_C364e14100215470_0001私は越谷に「住まいの市民館」と名付けた、モデルルームをオープンすることを決意しました。

1階には、車イスで生活が出来る暮らしの展示。2階には、若い夫婦の新しい暮らしの展示。そして3階には、ご高齢の方の暮らしの展示。

東都ハイムSKM_C364e14100215530_0001各階によって別々の提案をする住まいの市民館は、「いつまでも暮らし慣れた我が家で、人生を最後まで楽しんでもらいたい」そんな気持ちを込めました。
これが、私と東都ハイムの原点です。

 

いつまでも暮らしやすく、笑顔の集まる住宅を

 

IMG_6633住まいの市民館をオープンした数年後、私はかつての勤務先のオーナーに相談をし、当時のコスモボールの社宅の跡地を購入、社屋を構えました。

「東都はまだ生きている、社長の意思は私が受け継ぐ」
そんな想いから東都ハイムを設立して30年。

気づけば、長い年月が経ちました。

東都ハイムSKM_C364e14100215460_0001私はこれまでの自分の運命からたくさんの事を学び、そしてその中で素晴らしい人たちに出会うことができました。
「信用さえ失わなければ、商いは出来る」
今でもそう信じているのは、これまでの運命と出会った人たちのお陰です。

東都ハイムSKM_C364e14100215550_0001人生も、仕事も、全ては自分以外の人たちの支えがあって、成り立つものです。
その信用させ失わなければ、信用を築くことを諦めなければ、困難を乗り越えることが出来る。私は今も昔も、そう信じています。

家を建てるということは、つまり夢を建てること。
私たちの仕事は、そんなお客さまの夢を叶えるお手伝いをすることです。

修正IMG_6631だから、ただ買ってもらうだけではダメなんです。
夢の実現のためには、お客さまと私たちがパートナーとなって、一緒に作りあげなくてはいけません。
お客さまに喜ばれる仕事を続けることで、その信用を守り続けなくてはなりません。

私は去る2019年4月1日に、息子である水野猛史にこの東都ハイムを引き継ぎ、会長として東都ハイムを支える役割を担うことになりました。

昭和から平成、そして令和の時代へとこの国も変化をしていきますが、東都ハイムもまた同じように時代と共に変化をしてまいります。
新社長にもきっとこれから様々な出会いがあり、運命が待ち受けていることでしょう。
もちろん、この私にも。
その運命を受け入れ、私たちの役目を果たし続けることが大切だと思います。

いずれにしても、
お客さまに喜んでいただくこと。
信用を積み重ねること。
そして、その信用を守り続けること。
新社長には、それを受け継いでもらうことを期待しています。

越谷市の皆さま。
私たち東都ハイムは、これからも暮らし慣れた家でずっとイキイキと楽しく、笑顔で暮らせる住宅を、親子2代にわたって作り続けて行きます。

これからもどうか、東都ハイムをよろしくお願いいたします

会長と社長

 


▼東都ハイムの家づくり哲学
banner_08

 

 

▼スタッフ紹介

cate_02